観劇感想『智恵子抄』 2018.6.28(thu)

 

俳優・立木夏山(タチキ カザン)が紡ぎ出す、詩人・高村光太郎の物語。

 

私は決して多く本を読む人間ではない為、今回の公演を知るまで高村光太郎という詩人を知らず、必然的に「智恵子抄ってなんだろう?」となった。ざっくりした説明がフライヤーに記載されていた為抜粋させて頂くと、『「智恵子抄」は 高村光太郎が智恵子に出会って恋に落ちてから、同棲、結婚、闘病、死別、そしてその後、約30年にわたって書いた智恵子についての詩をまとめた詩篇である。』とのこと。

 

舞台はほぼ暗闇に近く、その中で数個の電球がポツポツと床に置かれて消えたり点いたりを繰り返す。

他人の呼吸や動く音すら感じる静けさの中で、立木氏の存在が強調され、時に静かに時に力強く、時に苦しげに詩を紡ぎながら舞い続ける姿は、洗練されていて、人間ではない何か神秘的なものを見ているような感覚にさえ陥る。

 

私自身は、この詩がとても気持ち悪かった。

愛を綴っているものであることは確かで、智恵子が光太郎にとても愛されていたのだなというのはわかる。けれど、『愛されている』を越えて、どこか狂気的に感じる。暖かい陽が当たる包むような愛の形ではなく、湿った曇り空のように鬱々とした愛の形のような。

フライヤーにも書かれている『あなたは私の為に生れたのだ 私にはあなたがある。』を始めはなんとも思っていなかったのに、見終わったあと妙に心に引っかかる言葉へと変わった。情熱的と捉える方もいるだろうけど、私は、執着や束縛といったあまり良い意味ではない捉え方をして胸の内にストンと落ちてしまった。

 

ただ、美しい詩を美しく舞っているだけのものだったら、こんなにも印象に残らなかったとも思う。

全体的には美しい舞いの中で、そんな(私から見たら歪な)高村光太郎の綴る想いもきちんと、身体や声で表現されていたのが凄かった。

 

アフタートークの中で立木氏が、物語ではなく詩を表現する理由の一つとして「詩は心に近い言葉だと思う。それが魅力的に感じる。」と仰っていた。

 

物語があり役がある演劇とはまた違い、詩人の魂といった、とても曖昧なものを目に見える形で創っていく立木氏の公演を、いつかまた松山で観れたらいいなと思う。