観劇感想『・ ・ ・』 2018.8.4(sat)

 

 あらすじ「葬儀の後、火葬を待つ間の一時間ちょっとの物語。「点転」という盤上競技の名人で、同協会の長だった人物の葬儀。 故人の古い知り合いの小説家に、参列者が次々と本を返しにくる。故人から生前借りて、著者である小説家に直接渡すように頼まれていたという。混乱する小説家は、さらに、過去の自作小説と「点転」との以外な関係性について知らされ、ショックを受ける。<盤の大きさに規定がない>点転という競技の存在が、それぞれの事情とすれ違った時、そこで起きたことは…」(フライヤー記載抜粋)

 

 舞台上に窓や扉が普通に存在しているのは凄いことなのだと、感覚が麻痺しそうになりながらも忘れてはいけないと思いました。

 舞台の天井や窓の外を覆っている繭のような布が、場や照明を柔らかくしていて凄く幻想的な空間で、点を打つ音が弟子の動きとピッタリ重なっていて、こんなにも生の舞台で綺麗にハマるものなんだと感動しました。

 

 小説家と弟子のやりとりが非常に好きで、小説家は飴のような言葉(感想)が聞きたいのに、弟子が良かれと思って言っている言葉が刃物だった、という構図は「違う、そうじゃない」と思いながら2回観て2回笑ってました。

 

 最初観たときは小説家や弟子の為の物語なのかと思っていましたが、2回目を観るまでの間に色々と自分なりに考察して、それを踏まえて再度観ると、見方が全然変わって見えました。

どの視点から見ているかによって終わりが違って見えて、観た人がそれぞれどんな考察をしたのか話したい、そんな素敵な作品だなと思いました。

 

 

 

 ここからは何の根拠もない私の想像です。(*物語の中では下記のようなことは一言も発していません。)

 

 あの世界では、小説家が書いた物語が実際どこかで存在していて、それは点転という競技に限ったことだけではなく、例えば、再生する者という存在も。

 そして、ずっと窓から外を眺めていた女性(以下:窓の女性)は、再生する者で、人間ではない且つ見える必要のある者にしか見えない存在ではないかと。

 そう思ったのは、上演前に何度か人があの部屋に入ってくるが、ずっと窓の女性がいるのにも関わらず、部屋を見渡したらすぐに出ていってしまう。

まるで窓の女性など見えていないかのように。

 

 小説家や故人の弟子が窓の女性を認識できたのは、認識する必要があったから。

誰の為か、窓の女性の為に。何の為か、窓の女性に『終わり』という概念を与える為に。

 

 故人と、窓の女性と、白い靴下の男性あるいは黒い靴の女性は、仲間だったのではないか。

 

 『終わり』という概念が無かった彼ら彼女らに、何かしらの理由で『終わり』が生まれてしまった。あるいは、自ら『終わり』を作った。

『終わる』為の手続きとか儀式とか習慣とか、そういうものがない窓の女性にその概念を与える為に、故人はあのような場を設けたのではないか。

 

 

 

 窓の外に光る光を最後まで眺め、まるで交信していたような女性のための物語というのが、私なりの一つの結論です。