観劇感想『ザ・空気』 2019.6.1(sat)

 

 『人気報道番組の放送数時間前、ある特集の内容について局の上層部から突然の内容変更を命じられ、現場は大混乱に陥る。編集長の今森やキャスターの来宮は抵抗するが、局内の“空気”は徐々に変わっていき…。2017年、「社会派ホラー」と評された問題作。』(フライヤー記載抜粋)

 

 たった一語異なったり減ったり増えたりするだけで、同じように聞こえるが意味合いが異なってくる。そんな日本語の特徴を突き、どうでも良さそうな修正から始まり少しずつ本当に変えたい部分へと迫っていく様は観ていてゾッとした。

 自分の身が一番可愛い。その次に自分の大切な者が可愛い。相手を突き落とすことで自分や自分の守りたい者が生き残れるのなら容赦なく落とすのは、人として当然な行動だと思う。局でのやりとりはまさにそれで、今森や来宮(は、最後裏切るが)以外は保身をはかる為の言動や行動でしかないように見える。

 

 タイトルである『空気』を私たちは多用する。(空気を読め、そんな空気じゃないだろう、あえて空気を読まない等特に学校や組織に属している者なんかは、敏感に察せない人間は見放されたり疎外されたりすることもあるくらい『空気を読む』ことが必要スキルになっている。なんとも息苦しい。

 そして『空気』は、それを操る者が必ず存在している。それが力のある者であり、局で言えば上層部の者だった。逆にいえば、『空気』を操っているように見える人が、力のある人であるかのように見えるということで、「その場の『空気』を支配する」というのは読むことよりも大きなスキルなのだと思う。それぐらい私たちは『空気』に縛られているような気もする。

 

 

 おかしいとわかっているのに、それを主張できない腹立たしさとか無力さとか、全て「まあフィクションだから」だけでは流せないやるせなさが残った物語だった。